闘鶏神社(和歌山県田辺市)の写真画像集

闘鶏神社の写真画像集

闘鶏神社(和歌山県田辺市)

闘鶏神社(とうけいじんじゃ)
2023年6月4日撮影

 

和歌山県田辺市にある闘鶏神社に行ってきました。闘鶏の由来は昔、源平の戦の頃、熊野水軍がどちらに味方するか決めかねていた時、紅白の鶏を用意し闘わせて決めたことが闘鶏神社の名前の由来とされています。

 

 

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起伏なく開けた境内。老若男女問わず歩きやすい。

 

 

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闘鶏神社 本殿

 

 

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闘鶏神社

 

 田辺の宮に熊野権現を祀り、熊野別当湛増(たんぞう)が社前で紅白の鶏を7度、闘わせ、すべて白鶏が勝ったので源氏に味方して屋島壇之浦の戦に源氏を援けたことから、この名前がついたと言われています。
 なお、毎年7月24日・25日両日に紀南の大祭として田辺祭がおこなわれます。

 

 

武蔵坊弁慶と父(湛増)の像

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源平の戦いは一の谷の合戦から海上戦に移り、当時最強を誇った熊野水軍の動向がその勝敗に大きな影響を与えることになり、熊野水軍の統率者である熊野別当湛増に対する源平双方の働きかけは激しさをきわめた。
義経の名を受けた弁慶は急いで田辺に帰り、父湛増の説得に成功、湛増は白い鶏七羽・紅い鶏七羽を戦わせて、神意を確かめ、湛増指揮のもと弁慶を先頭に若王子の御正体を奉持(ほうじ)、金剛童子の旗をなびかせて総勢二千余人、二百余の舟に乗って堂々と壇の浦に向かって出陣、源氏の勝利に大きな役割を果たした。
時に、文治元年(1185年)三月のことであった。

 

 昭和六十二年五月三日
武蔵坊弁慶・熊野水軍出陣八百年祭実行委員会

 

 

弁慶社

闘鶏神社の境内に弁慶社があります。

 

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弁慶社
 例祭日 三月三日

 

御祭神 武蔵坊 弁慶

 

 紀州田辺は弁慶誕生の地と伝わり奥州平泉で弁慶が亡くなった事を悼み植えられた弁慶松に祀られていた御霊。
 御霊は智仁勇を体現する忠孝の鑑(かがみ)で町の繁栄を祈り、家内安全・社運隆昌(りゅうしょう)・立身出生・衆災消除の信仰がある。

 

 

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弁慶社について

 

 武蔵坊弁慶は中世の傑僧(けっそう)で、その生涯は、悲運の武将 源義経に仕え、一の家臣として幾多の危機、苦難から義経を救ったことで知られています。後世、その様子は文学、芸能で伝統的に語られ、智、仁、勇を体現した日本人の典型として大きな影響を与え、今も多くの人々に親しまれています。

 

 出生地については諸説ありますが、熊野三山の別当湛増(たんぞう)の子に生まれてとされ、当地田辺市内には、弁慶誕生にまつわる産湯の井戸、産湯の釜、腰掛石など、数多くの遺跡や遺物が残されています。なかでも、「弁慶松」は、弁慶が奥州衣川で義経を守り壮烈な立ち往生を遂げたとの知らせを聞いた地元の人が、その生涯を讃えて植えたものと言われています。

 

 弁慶松は初代から五代目まで、片町の一角に植えられており、松の根方に弁慶大神のお社が設けられ、広く市民に親しまれていましたが、昭和五十年に枯死し、現在、市庁舎前に植え継がれています。

 

 五代目弁慶松の伐採以降、弁慶松の根方にあった弁慶大神のお社は、有志の手により三十年にわたり守り継がれた後に、この場所に新たに弁慶社として建立されました。

 

 

闘鶏神社の場所

〒646-0029 和歌山県田辺市東陽1−1

 

駐車場 有(無料)

 

無料駐車場は闘鶏神社近くにありますが、目立つ看板がなく分かりにくいので下の地図を掲載しておきます。

 

 


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