明恵上人
明恵上人(みょうえしょうにん)は鎌倉時代のはじめ頃に活躍した高僧です。平安時代、平氏の権力が強く華厳宗は衰退していましたが、平氏が滅び鎌倉時代には華厳宗は再び復興しました。この復興に明恵上人が大きくかかわった人物で『華厳宗の中興の祖』とも言われています。
復興の拠点となった現在の京都にある高山寺(こうさんじ)。後鳥羽上皇より賜った当時は廃寺のごとく荒れようだったと記録にあるが、明恵上人の人柄に魅せられた人が集まり建物が立ち並び伽藍ができていった。
現在、高山寺は明恵上人が関わった国宝や文化財などの宝物が多数あり、世界文化遺産にも認定されている歴史ある立派なお寺となっている。
明恵上人が和歌山県で修行した場所は明恵紀州八所遺跡(みょうえきしゅうはっしょいせき)で現存しています。このサイトでは紀州八所遺跡を巡り収めた写真画像を多数掲載しています。車で気軽に行ける遺跡が少ないので興味ある方には貴重な画像となると思います。
明恵紀州八所遺跡(はっしょいせき)
吉原卒都婆(吉原遺跡) - 国指定史跡
西白上卒都婆(西白上遺跡) - 国指定史跡
東白上卒都婆(西白上遺跡) - 国指定史跡
筏立卒都婆(筏立遺跡) - 国指定史跡
糸野卒都婆(糸野遺跡) - 国指定史跡
星尾卒都婆(星尾遺跡) - 国指定史跡
神谷卒都婆(神谷遺跡) - 国指定史跡
内崎山卒都婆(内崎山遺跡) - 町指定史跡
明恵紀州八所遺跡のできた経緯
明恵上人が示寂された後、上人ゆかりの場所が遺跡となる。
嘉禎二年(1236~)
・明恵上人の高弟喜海が上人ゆかりの地に木製の明恵紀州遺跡卒塔婆を建立。
・ゆかりの場所の中で『生誕地』と『草庵を建て修行した地』に卒塔婆がある。
康永三年(1344~)
・木製卒塔婆が古くなり弁迂によって石造の卒塔婆に交換。明恵の事績や建立の経緯が刻まれた。
遺跡の現状
現在まで補修は何度か行っている記録資料を見つけたが、遺跡の現状は風化が激しく掘った文字は読めなものがほどんどだった。明恵上人の修行の地だけあって、車で行くことが困難な遺跡が多い。そのため名所の知名度・注目度・お勧め度が低いと推測でき、それらも一因となり風化したままになっているんだろう思う。
遺跡に掘られている銘文は施無畏寺の書物(巻物?)に記されていて、復旧の際は当時と同じ銘文での再現が可能になるでしょう。
明恵上人 - 明恵紀州八所遺跡年表
西暦 | 年号 | 年齢(数え年) | 出来事 |
---|---|---|---|
1173年 | 承安三年 | 1歳 | ・正月8日誕生。幼名『薬師丸』
吉原遺跡(和歌山県有田郡有田川町歓喜寺) |
1180年 | 治承四年 | 8歳 | 両親を亡くし(1月母病死、9月父戦死)紀州に帰る。 |
1181年 | 養和元年 | 9歳 | 高雄神護寺の叔父上覚のもとに旅立つ。文覚と出会う。 |
1188年 | 文治四年 | 16歳 | 出家し名を『成弁(じょうべん)』と改める。 |
1191年 | 建久二年 | 19歳 | 明恵を名乗り始める。夢の記録し始める。 |
1195年 | 建久六年 | 23歳 | ・紀州に帰り西白山峰に草庵を建て修行する。
西白上遺跡(和歌山県有田郡湯浅町) |
1196年 | 建久七年 | 24歳 | ・東白山峰に移り草庵を建て修行する。
東白上遺跡(和歌山県有田郡湯浅町) |
1198年 | 建久九年 | 26歳 | ・8月文覚が病気の為、高雄に行く。
神護寺復興を託されるが受けなかった。 |
1199年 | 建久十年 | 27歳 | ・2月文覚が佐渡に流罪となる。
・講義で神護寺にいた明恵は筏地に戻る。 |
1201年 | 建仁元年 | 29歳 | ・明恵上人、糸野に移り修行する。
糸野遺跡(和歌山県有田郡有田川町糸野) |
1202年 | 建仁二年 | 30歳 | ・糸野に上覚上人が訪れる。
・明恵上人、阿闍梨の伝法灌頂を授かる |
1203年 | 建仁三年 | 31歳 | ・正月、春日大明神の託宣により天竺行きを中止。
・九月、文覚上人、鎮西で示寂する。 |
1204年 | 元久元年 | 32歳 | ・四月、明恵上人、星尾から神谷に移る。
神谷遺跡(和歌山県有田郡有田川町船坂) |
1205年 | 元久二年 | 33歳 | ・春、再び天竺(印度)行きを計画する。
・明恵上人、病のため天竺(印度)行きを中止する。 |
1206年 | 建永元年 | 34歳 | ・11月、後鳥羽上皇から高雄の一院栂尾を賜わり、高山寺と名づける。 |
1208年 | 承元二年 | 36歳 | 紀州、崎山に下向し修行する。
内崎山遺跡(和歌山県有田川町田殿) |