明恵上人修行の地 星尾卒塔婆(星尾遺跡)、明恵紀州八所遺跡の写真画像

明恵上人修行の地 星尾卒都婆(星尾遺跡)、明恵紀州八所遺跡

明恵上人-星尾遺跡

2023年4月14日撮影
明恵紀州八所遺跡 - 星尾卒都婆(星尾遺跡) - ほしおそとば
国指定史跡

 

星尾遺跡は、糸野遺跡より有田川の下流約10kmの地にあり、明恵上人31歳、建仁三年(1203)、糸野より星尾へ移る。

 

後援者の湯浅宗光が糸野地域の地頭職失脚により星尾の本宅に移るしかなくなる。その時に明恵と同行の僧達も一緒に星尾へ移ってきました。

 

星尾遺跡も他の遺跡と同じく乗用車では入り難い場所にありますが、民家と民家の間にあるので他の遺跡とは少し違った雰囲気を感じる場所でした。

 

 

明恵上人修行の地 星尾遺跡
明恵上人修行の地 星尾卒都婆(星尾遺跡)、明恵紀州八所遺跡の写真画像

 

 

明恵上人修行の地 星尾卒都婆(星尾遺跡)、明恵紀州八所遺跡の写真画像

 

 

明恵上人 星尾遺跡 説明案内板
明恵上人修行の地 星尾卒都婆(星尾遺跡)、明恵紀州八所遺跡の写真画像

史跡(国指定)
明恵紀州遺跡星尾率都婆
 昭和六年六月三日指定

 

 この地は明恵上人(1173~1232)が、建仁三年(1203)、三十一歳の時、春日明神の託宣を受けたところです。お釈迦様を慕っていた上人が、滅後に生まれたことを悲しみ、せめてインドに渡り、その遺跡を順拝したいと願っていたところ、春日明神からの託宣を受け、インド渡航計画を思いとどまりました。

 

 上人没後四年の嘉禎二年(1236)に、その由緒を示し公徳をしのんで、高弟の喜海が、上人の修行の地七ヶ所に、誕生の地を加えた八ヶ所に率都婆を建立しました。

 

 喜海が建てた率都婆は木造だったため朽損し、百八年後の康永三年(1344)に比丘弁迂が一族を勧進し、石造としたものが現存する率都婆です。

 

 石造率都婆が経年劣化で傷んだため、令和四年度に保存修理を行いました。率都婆は過去にも修理されており、最初の修理時期は不明ですが、昭和四十三年(1968)三月に二度目の修理が行われています。

 

令和五年三月
有田市教育委員会

 

明恵上人修行の地 星尾卒都婆(星尾遺跡)、明恵紀州八所遺跡の写真画像

 

 

明恵上人修行の地 星尾卒都婆(星尾遺跡)、明恵紀州八所遺跡の写真画像

 

 

明恵上人-星尾遺跡

 

 

正面上側
明恵上人修行の地 星尾卒都婆(星尾遺跡)、明恵紀州八所遺跡の写真画像

 

 

正面下側
明恵上人修行の地 星尾卒都婆(星尾遺跡)、明恵紀州八所遺跡の写真画像

 

 

裏側
明恵上人修行の地 星尾卒都婆(星尾遺跡)、明恵紀州八所遺跡の写真画像

 

 

左側面
明恵上人修行の地 星尾卒都婆(星尾遺跡)、明恵紀州八所遺跡の写真画像

 

 

明恵上人、星尾遺跡での出来事

明恵上人30歳、建仁二年(1202)冬、糸野より星尾へ移る。

 

明恵上人30歳、建仁二年(1202)冬、天竺(印度)へ釈迦の足跡をたどる渡航を計画する。
この時の渡航計画は『明恵上人筆大唐天竺里程書(みょうえしょうにんひつだいとうてんじくりていしょ)』に記載があり高山寺に重要文化財として現存しています。

 

建仁三年(1203)正月十九日、湯浅宗光の妻に春日大明神が憑き、明恵に天竺行きをやめるよう託宣を告げ、渡航を中止する。神託には春日社への参詣も命ずるとあった、この時の記録は弟子喜海の『明恵上人神現伝記』に記されている。

 

建仁三年(1203)二月、明恵上人、奈良の春日大社に詣でる。

 

建仁三年(1203)文覚上人は後鳥羽上皇に謀反(むほん)の疑いをかけられ、後鳥羽上皇の怒りをかい、対馬に配流になる。上覚は付き添い同行する。
同年九月、対馬に配流となった文覚上人は途中の鎮西(九州)で死去する。

 

文覚の流罪に関連し湯浅宗光は地頭職を召し上げられる。

明恵上人32歳、元久元年(1204)、有田地方一帯の湯浅氏所領が勅勘(ちょっかん・天皇の勅命により勘当)を受け消滅する。伝記では「地頭職違乱」と記す。これは流罪となった文覚と湯浅が関係が深かった為ともいわれるが、詳細は不明である。この時代の天皇は土御門天皇(後鳥羽天皇の皇子)  引用:(明恵上人・著:垣内貞)

明恵上人32歳、元久元年(1204)四月、星尾より神谷へ移る。

 

 

 

星尾卒都婆(星尾遺跡)の場所

〒649-0312 和歌山県有田郡有田市星尾
駐車場 無


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