明恵上人誕生の地 吉原卒塔婆(吉原遺跡)、明恵紀州八所遺跡の写真画像

明恵上人誕生の地 吉原卒都婆(吉原遺跡)、明恵紀州八所遺跡

明恵上人-吉原遺跡

2023年4月5日撮影 
明恵紀州八所遺跡 - 吉原卒都婆(吉原遺跡) - よしはらそとば
国指定史跡

 

吉原遺跡には明恵上人誕生の地を示す卒塔婆(そとば)が建ち、他に案内板や明恵上人の歌碑もありました。吉原遺跡に隣接する明恵上人ゆかりの屋敷跡地があり上人胎衣塚(えなづか)と刻まれた石碑があります。

 

明恵上人は承安三年正月八日辰の刻、紀伊国存田群石垣荘吉原村で生誕する。(1173年1月8日7~9時の間 現:和歌山県有田郡有田川町歓喜寺で生誕する。)

 

 

 

明恵上人生誕地 吉原遺跡の写真画像

明恵上人誕生の地 吉原卒都婆(吉原遺跡)、明恵紀州八所遺跡の写真画像

 

 

吉原卒都婆
明恵上人誕生の地 吉原卒都婆(吉原遺跡)、明恵紀州八所遺跡の写真画像

 

 

吉原卒都婆 説明案内板

明恵上人誕生の地 吉原卒都婆(吉原遺跡)、明恵紀州八所遺跡の写真画像
史跡(国指定)
明恵紀州遺跡吉原卒都婆
 金谷町大字歓喜寺字中越179番地

 

 この地は明恵上人誕生の地です。
 上人は、京都高倉院の武者所につとめていた武士・平重国と有田の湯浅権守藤原宗重の四女の子として承安三年(1174)正月八日に生まれました。 承安四年(「1180)正月、母を失いその九月、父も上総国で戦死して孤児となるまでの八年間ここで育ちました。

 

 上人誕生の由縁を慕い、入寂後、嘉禎二年(1236)高弟義林房喜海が木製の卒都婆を建立、その後、康永三年(1344)に朽ちたので、比丘弁迂が一族を観進して石造りとしたのが現存する卒都婆です。

 

 

明恵上人歌碑
明恵上人誕生の地 吉原卒都婆(吉原遺跡)、明恵紀州八所遺跡の写真画像

 

 

明恵上人誕生の地 吉原卒都婆(吉原遺跡)、明恵紀州八所遺跡の写真画像

 

 

明恵上人ゆかりの屋敷跡地
明恵上人誕生の地 吉原卒都婆(吉原遺跡)、明恵紀州八所遺跡の写真画像

 

 

石碑『上人胎衣塚』
明恵上人誕生の地 吉原卒都婆(吉原遺跡)、明恵紀州八所遺跡の写真画像

 

 

屋敷跡地から見た吉原遺跡
明恵上人誕生の地 吉原卒都婆(吉原遺跡)、明恵紀州八所遺跡の写真画像

 

 

明恵上人ゆかりの屋敷跡 説明案内板

明恵上人誕生の地 吉原卒都婆(吉原遺跡)、明恵紀州八所遺跡の写真画像
明恵上人ゆかりの屋敷跡

 

 明恵上人(1173~1232年)は、鎌倉時代に活躍した高僧です。後鳥羽上皇や北条泰時など多くの人々の帰依を受け、京都栂尾(とがのお)に高山寺を開いた華厳宗中興の祖としても知られています。明恵上人は、紀伊国在田群石垣荘吉原村に生誕しました。この周辺は、上人生誕の地として伝承されてきた場所であり、上人没後は高弟の喜海(きかい)によって卒塔婆が建てられ、上人の出身氏族である湯浅氏の支援を受けて歓喜寺が開かれました。

 

 平成4年(1992年)にこの場所を発掘調査したところ、鎌倉時代の建物跡などが発見され、当時としては貴重な中国製の時期などが出土しました。確認された5棟の建物跡は、いずれも13世紀中頃のものであることから、明恵上人が生誕した建物とはいえませんが、卒塔婆の周辺には有力者の居館が建てられていたと考えられ、湯浅一族や石垣荘北の地頭であった保田氏が上人の生誕地を受け継いで整備したものと想定されます。

 

 また、発掘調査では「明恵上人の衣奈塚(えなづか)」と呼ばれる場所を区画するように溝が存在していたことも判明しました。現在の衣奈塚は江戸時代に作られたものですが、鎌倉時代には基檀の上に堂が建てられていた可能性があり、明恵上人を追慕する施設であったと考えられています。

 

奈良文化財研究所-発掘調査資料(PDF)
https://sitereports.nabunken.go.jp/files/attach/33/33927/30172_1_%E6%98%8E%E6%81%B5%E4%B8%8A%E4%BA%BA%E9%81%BA%E8%B7%A1%E7%99%BA%E6%8E%98%E8%AA%BF%E6%9F%BB%E6%A6%82%E5%A0%B1.pdf

 

 

案内板の発掘調査画像
明恵上人誕生の地 吉原卒都婆(吉原遺跡)、明恵紀州八所遺跡の写真画像

 

 

発掘調査平面図(案内板)
明恵上人誕生の地 吉原卒都婆(吉原遺跡)、明恵紀州八所遺跡の写真画像

 

 

紀伊国名所図会(案内板)
明恵上人誕生の地 吉原卒都婆(吉原遺跡)、明恵紀州八所遺跡の写真画像

 

 

明恵上人誕生から23歳までの出来事

父:平重国(たいらのしげくに)
母:湯浅宗重(ゆあさむねしげ)の娘(四女)

 

父は京の高倉院に使える武士
平姓だが伊勢平家に養子入り、平の血筋ではない。

 

 

叔父(外祖父)の湯浅宗重について、明恵上人伝記には「藤原宗重」とある。宗重の父は「藤原宗永」で別名「湯浅左近大夫」とウィキペディアに記載がるのを見つけた。藤原姓と湯浅姓の使い分けまでは分からなかったが、これによって明恵上人伝記にある藤原姓でも理解はできた。

 

湯浅宗重は平清盛の信任を受け総大将になるほど信頼関係が厚く、朝廷や貴族の熊野詣には警備、道路管理、宿泊の手配など重要な役目もあり、繋がりのある京都に邸宅を構え滞在することも多かった。

 

明恵の父母の出会う機会はこういった背景から推察できる。

 

父重国は嵐山の法輪寺になんども参拝し子供の誕生を願う。
母は四条高倉の邸で懐妊
生まれてくる子が男子なら、高雄神護寺の薬師如来に捧げんと決め、吉原の邸で男子出産と同時に「薬師丸」と名付けた。

 

薬師丸は生後間もなく京都に行っている。信仰深い両親のもとで育った薬師丸は、法師(僧侶)になることを夢見るようになっていた。

 

2歳、乳母に連れられ清水寺に参拝。その時開かれていた猿楽に群衆が集まり乳母もそれを見せようとするが、薬師丸は本堂の読経を聞きたいとねだり泣いた。これを明恵は後に「仏法を貫く思いし始めなり」と語っている。

 

4歳、父の戯れで薬師丸に烏帽子を着せる。眉目秀麗に育つ薬師丸を見て「大きくなったら武士にして平重盛の家来になれば」と言った。それを聞いた薬師丸は驚き、僧侶になって人の役に立つと心に決めていた薬師丸は幼心に悩んだすえ、「体が不自由になれば武士にならずにすむ」と考え高い縁側から身を投げた。これを明恵は「是、仏法のために身をやつさんと思いし始めなり」と後に語っている。

 

8歳、治承四年(1180)に両親を亡くす(1月に母病死、9月に父戦死)。京の四条高倉に居住していた薬師丸は両親の死により紀州に帰ることになる。孤児の薬師丸はを引き取ったのは母の姉夫婦だった。姓は崎山、湯浅党他門の崎山良貞(さきやまよしさだ)夫婦の屋敷で傷心の薬師丸を我が子以上の慈愛で養育する。この地が後の内崎山遺跡に関係する。

 

9歳、養和元年(1181)八月、崎山家を離れ母の兄(上覚:湯浅家四男)のいる高雄に行く。叔父の上覚に連れられ京の神護寺に入山し、上覚の師の文覚(もんがく)と出会う。その時、文覚は「これはよき後継者が出来た」と喜んだ。

 

この時の3人の年齢(数え年)
43歳-文覚(1139~1204)
35歳-上覚房行慈(1147~1226)
9歳-薬師丸(1173~1232)

 

文覚上人と湯浅宗重(明恵の外祖父)と親交があり、文覚の勧めで宗重は仏門に入り「湯浅入道」とも呼ばれた。そういった繋がりで宗重の息子の上覚は文覚の弟子として仕える事になった。

 

仁安三年(1168)、文覚上人は荒廃していた神護寺復興に着手
承安三年(1173)、文覚、後白河法皇の逆鱗に触れ伊豆に配流(はいる:流罪のこと)
伊豆へは弟子の上覚も付き添う。伊豆で同じく流罪となっていた源義朝と出会い親しくなる。
文覚は頼朝に平家討伐の挙兵を説得、配流中各所討伐準備をし頼朝の地盤を強固にした。

 

治承二年(1178)、文覚は赦免され京都に帰る
治承四年(1180)、源頼朝が挙兵、明恵の父が戦死。

 

文覚上人は平家討伐のきっかけを作った真の立役者かもしれないと私は思う。
この件で文覚は、明恵の敵にもあたるといえ、また平家と繋がりが深かった湯浅一族の衰退のきっかけとなり、弟子の上覚や明恵の心境はいかがなものだったのだろうか考えさせられる。

 

文覚が神護寺復興に着手する前の荒廃ぶりは「平家物語」(百二十句本)第46句「文覚」の一節に「久しく修造なかりしかば、春は霞にたちこめられ、秋は霧に交はり、扉は風に倒れて落ち葉の下に朽ち、甍は雨露におかされて仏 壇更にあらはなり、住持の僧もなければ、稀にさし入るものとては、日月の光ばかりなり」と酷いありさまが伝わる。

 

文覚が赦免から3年後、薬師丸が神護寺に入るがまだまだ荒廃していただろうと推察できる。

 

16歳、文治四年(1188)薬師丸は出家し成弁(じょうべん)と改める。

 

19歳、建久二年(1191)明恵を名乗り始める。夢の記録始める。
明恵の由来は、成弁の夢に現れた仏眼如来からの一通の手紙にある。手紙の表紙に「明恵御房 仏眼」とあるのを見て、「明恵」を名乗るようになった(明恵上人 著:垣内貞)。 この夢がきっかけで夢記が始まる。

 

夢記(ゆめのき)は個人的なメモのようなもので、明恵は焼却するよう弟子の定真に言っていたが、定真はもったいなく思い秘蔵していたため現存し国宝となっている。

 

21歳、建久四年(1193)朝廷から成弁に華厳教復興のため東大寺に出仕する。東大寺尊勝院に住み華厳経を究め写経にも務めたが不満が膨らむ。僧侶の中に釈尊の本来の趣旨に合わない者が増え、学閥争いや僧の位階・名声や利得を求める僧に不満を持ち、神護寺に帰った。

 

23歳、建久六年(1195)神護寺にも俗欲の強い僧達が増え、戒律を破る姿に我慢できなくなり、故郷の紀州に帰る。栖原の山、白上峰の西側に草庵(そうあん)を建て修行の地とする。

 

西白上卒都婆(西白上遺跡)の写真画像はこちら

 

明恵修行中の草庵(そうあん)とは

『庵』は、小さな家や質素な小屋を示します。草庵は藁(わら)など草で出来た家を意味している。

 

僧侶が生活しているので僧庵とも表現できるが、草で出来た家を強調して草庵としているのだろう。

 

明恵上人誕生の地 吉原卒都婆(吉原遺跡)、明恵紀州八所遺跡の写真画像
草庵イメージ画像(フリー素材:写真AC)

 

 

 

 

吉原卒都婆(吉原遺跡)の場所

〒643-0161 和歌山県有田郡有田川町歓喜寺159
駐車場 無

 

・私は歓喜寺横に車を停めました。吉原遺跡まで徒歩3分程度でした。


page top