明恵上人ゆかりの地 歓喜寺の写真画像

明恵上人ゆかりのお寺 歓喜寺(かんぎじ)

歓喜寺(和歌山県有田郡有田川町)

2023年4月5日撮影 
明恵上人ゆかりのお寺 歓喜寺(かんぎじ)

 

 

歓喜寺は明恵上人誕生の地「吉原遺跡」の近くにあり、明恵上人ゆかりのお寺の石碑があります。本堂、上品堂、下本堂、鐘楼堂、収蔵庫がありました。収蔵庫には寺宝の『地蔵菩薩座像』 『阿弥陀如来座像』 『明恵上人座像』 『恵心僧都座像』が保管されています。直接、拝観できるものは無く、境内にある建物を見ながら散策してきました。

 

 

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歓喜寺の横に広い駐車スペースがあります。電柱の近くにバス停があるので、バス停から離れた所に車を停めました。

 

 

 

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正面に下本堂が見えます。左側、樹木の後に建っているのは鐘楼堂です。

 

 

 

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明恵上人ゆかりの寺の石碑

 

 

 

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観喜寺の由来

 

 当山は比叡山横川の恵心僧都(えしんそうづ・源信)が熊野参詣の為紀伊に下向し、この地に九品(くほん)の浄土を感得し、衆生済度の誓願をたて、寛和二年(986)に開基 浄土念仏の信仰が本郡に入った最初の道場である。
 かつては境内八丁四方にわたり、九品浄土を模し上品堂・中品堂・下品堂・その他諸堂善美を尽くしていたが、保元の頃 衰微していたのを明恵上人の寂後 地頭 湯浅宗氏が「この地は上人の誕生地である」とて、上人の遺弟 義林房喜海を迎え中興し歓喜寺と称した。湯浅家の庇護のもとに寺領も多く隆盛をきわめたが、その後 衰退していたのを永禄年間(1558~)松誉素川が再興して浄土宗となり今日に及ぶ。
 明恵上人(高弁)は承安三年(1173)金屋町歓喜寺に生誕。父は高倉院の武者所、平重国、母は湯浅権守宗重の第四女。上人は幼少にして父母に死別し九歳 高雄に登り上覚上人の弟子となり勉学修行に専念。尚 静閑の地をもとめ郷里に帰り所々修練に志す(そのゆかりの地が明恵紀州八所遺跡)。上人三十四才 後鳥羽上皇の院宣を以て栂尾に高山寺を興し華厳宗興隆の道場とす、自然を友とし樹下石下に修行。また 著述に励み釈尊を追慕し佛教に新しい生命を与えんと精進された高僧である。又 栄西から贈られた茶の実を宇治に植え紀州にも伝えて「茶の祖」と仰がれ、承久の乱(1221)以来 執権北条泰時は上人の徳を慕い治国の要を聞くなど老若男女を教化す。

 

国指定の重要文化財
木造地蔵菩薩坐像一木造 平安初期(貞観時代)作(下品堂)
木造阿弥陀佛坐像 寄木造 鎌倉時代の作(上品堂)

 

その他
石垣千体佛(千百十体の木造阿弥陀佛像)(下品堂)
石造 阿弥陀佛座像(中品堂)

 

史跡(昭和六年 文部省指定)
明恵上人誕生地跡 石造卒都婆一基 康永三年(1344)弁迂造
筏立明恵上人修練之地 石造卒都婆一基 享和二年(1802)再建

衆生済度(しゅじょうさいど)・・・迷い悩んでいる命ある者・心をもつ者を苦しみから救い、悟りの世界に渡し導くこと。
開基・・・寺院を創設すること

 

 

 

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鐘楼堂

 

 

 

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下本堂正面。 下本堂の右につながっている建物は本堂になります。

 

 

 

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下本堂

 

 

 

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左:本堂 、 右:収蔵庫
正面の階段は上品堂に続きます。

 

 

 

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収蔵庫

 

 

 

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階段は119段ありました。とても急な階段で手すりもないので足に自信のない方は登らない方が良いでしょう。

 

 

 

明恵上人ゆかりの地 歓喜寺の写真画像

 

 

 

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上品堂、階段を登り切った所に立っていました。入り口は右側にありました。

 

 

 

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上品堂、今は使われていなく中は何もありませんでした。

 

 

 

明恵上人ゆかりの地 歓喜寺の写真画像
上品堂裏側、劣化が酷くなっていました。

 

 

上品堂のある山のどこかに中品堂があるらしいので、機会があれば探して写真画像を掲載したと思っています。

 

 

歓喜寺(かんぎじ)の場所

〒643-0161 和歌山県有田郡有田川町歓喜寺159
駐車場 有(無料)

 


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