和歌山県有田郡広川町の稲むらの火の館の写真画像集です。

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稲むらの火の館
白崎海洋公園

≪ 濱口梧陵記念館編 ≫

稲むらの火の館の写真画像集

2011年6月4日撮影

総工費約10億円を投じ「避難場所兼、津波防災教育センター」と「濱口梧陵記念館」が平成19年(2007年)3月にオープンした。津波発生装置や映像で津波の恐ろしさを学び、防災に対しての知識を深める事ができる。

濱口梧陵記念館は「稲むらの火」の物語の主人公で、津波から多くの人を救った事で有名な浜口梧陵の偉大な功績や教訓、驚きの生涯を紹介している。



稲むらの火の館と駐車場の写真画像

稲むらの火の館

駐車場は無料で観光客は自由に止められ、大型の観光バスは徒歩で約5分くらいの近くの港に止める事ができる。

駐車場奥の古民家風の平屋の建物が濱口梧陵記念館、その奥にある3F建ての建物が津波防災教育センターです。両方の建物をまとめて稲むらの火の館という。
2011年3月11日の東日本大震災大津波で国民の津波防災意識が高まり来客数が増えている。


稲むらの火の館の入り口

稲むらの火の館

入り口の門と通用口の写真です。通用口の方はスロープになっていて足の不自由な方も安心だと思う。また、入り口近くの立石には『稲むらの火の館 内閣総理大臣小泉純一郎書』と彫られている。何か関係していたのだろうか?

『稲むらの火』の物語は1854年(安政元年)11月4日、5日に襲来した安政地震の大津波時に危機から村人を救った浜口梧陵をモデルに書かれた物語だ。物語は浜口梧陵の行動に感銘を受けた明治の文豪・ラフカディオ・ハーン(日本国籍取得後は小泉八雲の名となる)が英文でタイトル『A Living God(生ける神)』で濱口梧陵を紹介した。

後に小学校教師であった中井常蔵がこれをもとにして、「稲村の火」の物語を著し、小学国語読本に採用された。この物語では、舞台が三陸海岸の村という設定で描かれ、小学生ばかりでなく、国民の多くに感動を与え続けた。


実話と物語の違い

稲むらの火-広村を襲う津波
2011年8月14日 津波防災教育センターにて撮影
津波(第二波)が稲むらを流す様子が描かれている。

物語の大筋となる津波から村人を救ったことは事実だったが、稲むらの火の館に訪れ「(実話は)へぇ〜、そうだったんだ」と、認識の違いがあきらかになった。

私が幼い頃に聞いた物語は、『老人が津波を村人に知らせるために収穫間近の老人の田んぼにある稲に火をつけ、それに気づいた村人が集まり、結果、村人は津波から非難ができた』と、いうものだった。

個人的に認識を正すため違いを書き出してみた。

認識 実話
年齢 老人 35歳
火を付けた物 収穫前の稲 収穫後の稲むら
津波が来た時、
火を付けた時
明るい時間帯 暗い時間帯
火を付けた理由 津波を知らせる為 避難方向を知らせる為

物語 実話
名前 五兵衛(ごへえ) 儀兵衛(ぎへえ)
地震の揺れ ゆったりとした揺れ 激震
村人の数 四百の命(400人) 約1300人
濱口家の場所 高台 平野(海抜5m程度)
避難場所 高台 神社(海抜20m未満)

当時、津波の第一波は静かに村を襲った、しかも夜中だったため村人は逃げる場所が分からなくなりパニック状態だった。儀兵衛が第二波が来る前に稲むらに火を灯した事により、避難方向が分かり多くの村人が助かった。


稲むら

稲むら

稲むらとは、稲からお米を収穫したあとに残る藁(ワラ)を乾燥させるために、積み上げたものである。

藁(ワラ)は草履(ぞうり)や敷物(ゴザ)、屋根の材料などの生活にかかせない物だった。


『稲むらの火』主人公-濱口梧陵像

浜口梧陵像

濱口梧陵記念館に入ると濱口梧陵像が迎えてくれる。後ろの写真は広村(現、広川町)を写した物で写真下部に左右に伸びる松林は濱口梧陵の偉業の一つ、私財を投げ打って建設した広村堤防である。

濱口梧陵 (1820-1885)
文政3年(1820年)誕生 しょうゆ醸造本家の分家に生まれる。
 0歳 幼名は『七太(しちた)』
12歳 本家の跡継ぎになり、名を『儀太(ぎた)』に改名。
15歳 元服(成人式)して、『儀太郎(ぎたろう)』に改名。
34歳 家督を継ぎ、第7代当主『儀兵衛(ぎへえ)』に改名。
51歳 8代目に家督を譲り、『梧陵(ごりょう)』に改名。

しゅうゆ醸造本家は、現在のヤマサ醤油株式会社である。
当時、ヤマサ醤油の当主は初代当主の名『儀兵衛(ぎへえ)』を受け継いでいた。


濱口梧陵記念館-展示室1

拡大写真(800x600)72KB
濱口梧陵幼少期

2011年6月12日撮影

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2011年6月12日撮影
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2011年6月12日撮影

展示室1では、浜口梧陵の幼少『七太(しちた)』〜ヤマサ醤油当主『儀兵衛(ぎへえ)』までの生い立ちの紹介がある。濱口梧陵の人格形成に影響があった家憲(かけん)や人との出会いを知る事ができる。

濱口梧陵-『七太(しちた)』・・・(誕生〜12歳)
しょうゆ醸造本家の分家に生まれた七太は、幼き頃に父親を亡くし、母一人の手により育てられた。

濱口梧陵-『儀太(ぎた)』・・・(12歳〜15歳)
12歳になった七太は、しょうゆ醸造本家の養子となり、儀太を名のる。儀太は江戸を経て銚子(千葉県)に赴き、濱口家家憲(かけん)に従い丁稚(でっち)と寝食を共にし家業にいそしんだ。

濱口家家憲
  たとえ主人といえども
  少年時代に遊び暮らすことを許さず、
  一つには自ら困難に立ち向かう態度を養い、
  一つには人を率いる道理を得る。


濱口梧陵記念館-展示室1

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2011年6月12日撮影
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2011年6月12日撮影

濱口梧陵-『儀太郎(ぎたろう)』・・・(15歳〜34歳)
 15歳(1834年-天保5年)、元服(成人)し儀太郎に改名する。
 22歳(1841年-天保12年)、三宅艮斎(みやけごんさい)と出会う。
 31歳(1850年-嘉永3年)、勝海舟と出会う。
 32歳(1851年-嘉永4年)、崇義団(すうぎだん)を結成する。
 33歳(1852年-嘉永5年)、和歌山県広村に稽古場(私設)を開設する。

文武両道に精進。20歳の頃、槍術は奥義に達していた。蘭学医の三宅艮斎との出会いで西洋の事に触れ、次第に世界に目を向けるようになる。渋田利右衛門(しぶたりえもん)の紹介で日本橋の本屋で勝海舟と出会う(写真右)。意気投合し生涯の友となる。

和歌山県広村近海に目的不明の異国船を見るようなってきた為、儀太郎は村の男を説得し故郷を自らの手で守るために崇義団(すうぎだん)を結成する。私財を投じ稽古場を開設し、自ら武術を教え始めた。



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