明恵上人修行の地 神谷卒都婆(神谷遺跡)、明恵紀州八所遺跡
2023年4月13日撮影
明恵紀州八所遺跡 - 神谷卒都婆(神谷遺跡) - かみたにそとば
国指定史跡
神谷遺跡は鷲ヶ峰の中腹にあり、明恵上人が32歳頃に修行した場所です。湯浅一族の地頭職失脚で混乱し星尾ではいられなくなり神谷に修行地を移しました。現在ではみかん畑の農地となり整備されていますが、当時は人里離れた樹々の生い茂る山深い静かな場所だったでしょう。
神谷遺跡は明恵紀州八所遺跡の中で一番到達が困難な遺跡で大変でした。遺跡は管理されている様子なく、雑草が繁茂していました。
神谷遺跡への道しるべ
道しるべは途中まではキチンとありました。しかし、最後の道しるべが折れて倒れた状態で草木に埋もれてまったく見えません。
神谷遺跡に初めて行く場合、ガイドなど場所を知る人と一緒でないと行けないでしょう。
到達困難な神谷遺跡
道から見えない位置にある神谷遺跡。
神谷遺跡と説明案内板
4月の遺跡付近は草が足首より上まで延びていました。鷲ヶ峰には毒蛇(マムシ)注意の看板を見たことがあったので、棒で草をたたきながら遺跡に向かいました。
損傷・風化の激しい神谷卒都婆
明恵上人 神谷遺跡 説明案内板
風化がひどく解読不可能でした。
神谷遺跡から見える風景
明恵上人、神谷遺跡での出来事
明恵上人32歳、元久元年(1204)四月、星尾より神谷へ移る。
上覚上人から神護寺に帰山を奨める手紙が届く。師の心に感謝と修行の継続の返事を送る。
同年冬、神谷山麓に住む崎山良貞が重病となる。崎山良貞は8歳で孤児になった明恵上人を養育した恩人。明恵上人は下山し養父の最後を看取る。
神谷へ戻る。
明恵上人33歳、元久二年(1205)春、再び天竺(印度)行きを計画する。共に行く従者も準備を始め、地図を用意し工程を決め、旅支度の衣装を用意するも明恵上人が病にかかる。数日苦しみ心身ともに疲れ果て天竺行きは無理だと思ったが諦めきれず、神託にゆだねてクジを引く。すべて「行かない方が良い」となり渡天を思いとどめる。このことは「明恵上人伝記」に記されている。
明恵上人33歳、元久二年(1205)秋、庵のある地の地頭職が代わり、庵にいるのが難しくなった為、栂尾(とがのお)に移る。
明恵上人34歳、建永元年(1206)十一月、後鳥羽上皇から院宣が下り、高雄の一院栂尾を賜わる。その地を華厳宗興隆の地とし『高山寺』と名をつけた。
明恵上人36歳、承元二年(1208)、崎山良貞の妻(明恵の母の姉)は、崎山夫妻の邸宅を夫の供養のため寺に建替え明恵に寄進する。
寄進された伽藍の後方に草庵を建て弟子達と修行する。
神谷卒都婆(神谷遺跡)の場所
〒643-0842 和歌山県有田郡有田川町船坂
駐車場 無
神谷卒都婆(神谷遺跡)に行かれる方へ
・遺跡の場所を知っている方と行かれる方が良いでしょう
・県道480号線から約2km坂道を歩ける方が良いでしょう
・2月末〜4月始めが遺跡に行くベストタイミングだと思います。
上記3点の理由
・神谷遺跡までの道はとても細く、土地勘の無い人は乗用車では行かない方が良いです。
・道案内の看板はありますが、最後の一つが2023年4月にはありませんでした。たどり着けないと思います。(遺跡には私有地(みかん畑)を通るため、遺跡への入口付近の画像の掲載は中止しました。)
・駐車場はありません。遺跡付近の駐車は大変迷惑になるので車での遺跡探訪はおススメできません。
・4月末からは雑草で遺跡には近づけません。
・夏〜秋、みかんの摘果、農薬散布などで私有地(畑)に入れない日があります。
・秋〜冬はみかんの収穫時期なのでみかん畑には入れないかもしれません。
2023年6月20日撮影・神谷遺跡前の画像
毒蛇注意!雑草が膝上くらいまで成長し近づけませんでした。