明恵上人修行の地 内山崎卒都婆(内山崎遺跡)、明恵紀州八所遺跡
2023年4月13日撮影
明恵紀州八所遺跡 - 内山崎卒塔婆(内山崎遺跡) - うちさきやまそとば
町指定史跡
内崎山遺跡は8歳で孤児になった明恵少年を養育した山崎夫妻の邸宅があった場所です。現在は法蔵寺とその敷地内に内崎山卒都婆(内崎山遺跡)があります。明恵上人36歳、承元二年(1208)に、崎山尼が崎山邸宅を伽藍に建替え明恵上人に寄進し、寄進を受け明恵上人と弟子達が伽藍の後方に庵を結び修行した。
- 明恵上人誕生 吉原卒都婆(吉原遺跡)
- 明恵上人23才〜 西白上卒都婆(西白上遺跡)
- 明恵上人24才〜 東白上卒都婆(東白上遺跡)
- 明恵上人26才〜 筏立卒都婆(筏立遺跡)
- 明恵上人29才〜 糸野卒都婆(糸野遺跡)
- 明恵上人31才〜 星尾卒都婆(星尾遺跡)
- 明恵上人32才〜 神谷卒都婆(神谷遺跡)
- 明恵上人32才〜 内崎山卒都婆(内崎山遺跡)(現在のページ)
法蔵寺(内山崎遺跡)の入口
法蔵寺と内山崎遺跡
明恵上人 内山崎遺跡
正面 上部
正面 下部
左側側面
明恵上人 内山崎遺跡 説明案内板
有田川町指定文化財(史跡)
内崎山明恵遺跡
指定年月日 昭和三十九年十二月一日
明恵上人は、ある時は修行のため、またある時は京都神護寺での騒動を避ける等の理由から、しばしば故郷の有田の地へ帰っています。親族の湯浅一門の保護のもと、修行を行った草庵七ヶ所と、生誕地を加えた八ヶ所の遺跡は、「明恵上人紀州八所遺跡」と呼ばれています。明恵上人紀州八所遺跡は、明恵上人の高弟であった喜海(きかい)が嘉禎二年(1236)に明恵の遺徳を偲んで、木製の卒塔婆を建立したことに始まります。その後、康永三年(1344)に弁迂が一族を勧進して石造の卒塔婆に改めました。今も七ヶ所に卒塔婆が現存し、国の史跡に指定されています。
この地は、通称大師山と呼ばれる法蔵寺の境内山で、治承四年(1180)八才にして相次いで両親を失った明恵上人を叔母である崎山尼とその夫崎山良貞が養父母として引き取り、過ごした崎山屋敷があったと伝わる場所です。
その後、承元二年(1208)には、崎山尼が亡夫の菩提のため、明恵上人に屋敷を寄進して伽藍となし、仏像聖典を安置しました。明恵上人は、その後方に草庵を建て、弟子達とともに修行を行いました。
現在、紀州八所遺跡の中で、内崎山遺跡のみが卒塔婆の所在が不明となっており、この石碑は昭和八年に復興されたものです。
平成二十三年三月
有田川町教育委員会
明恵上人、内崎山遺跡での出来事
明恵上人8歳、治承四年(1180)両親を亡くし孤児となり傷心していた明恵少年を崎山夫妻が里親となる。崎山夫妻はとても慈愛に満ちた養育をされた。
明恵上人32歳、元久元年(1204)冬、養父の崎山良貞の最後を看取る。
明恵上人36歳、承元二年(1208)、崎山良貞の妻(明恵の母の姉)は、崎山夫妻の邸宅を夫の供養のため寺に建替え明恵に寄進する。
寄進された伽藍の後方に草庵を建て弟子達と修行する。(修行期間は不明)
崎山家は、その後平成まで続き伝来の文書も保存され、明治三十五年東京大学資料編纂所の調査で、広く学界に知られるようになった。その後、崎山家は京都に移住し、この文書もそこで大切に保存されてきたが、平成五年当主の死去にともない、遺言により湯浅一族の菩提寺である施無畏寺に寄進された。引用:明恵上人、著・垣内貞
- 明恵上人誕生 吉原卒都婆(吉原遺跡)
- 明恵上人23才〜 西白上卒都婆(西白上遺跡)
- 明恵上人24才〜 東白上卒都婆(東白上遺跡)
- 明恵上人26才〜 筏立卒都婆(筏立遺跡)
- 明恵上人29才〜 糸野卒都婆(糸野遺跡)
- 明恵上人31才〜 星尾卒都婆(星尾遺跡)
- 明恵上人32才〜 神谷卒都婆(神谷遺跡)
- 明恵上人32才〜 内崎山卒都婆(内崎山遺跡)(現在のページ)
内崎山卒塔婆(内崎山遺跡)の場所
〒643-0844 和歌山県有田郡有田川町井口22
駐車場 有(2台)
遺跡は法蔵寺境内にあり、法蔵寺の駐車場を利用します。