明恵上人修行の地 筏立卒都婆(筏立遺跡)、明恵紀州八所遺跡
2023年4月5日撮影
明恵紀州八所遺跡 - 筏立卒都婆(筏立遺跡) - いかだちそとば
国指定史跡
筏立遺跡は、建久九年(1198)冬ごろ、明恵上人が26歳から3年間修業をした場所です。当時ここは人里から30町(約3.3km)離れた地で『奥深くにある霊地なり』と明恵上人伝記に残る。ここに明恵の伯父(湯浅兵衛尉宗光)が草庵を用意し明恵上人を招いた。
ミカン畑の中にある筏立遺跡
明恵上人 筏立遺跡 説明案内板
史跡(国指定)
明恵紀州遺跡筏立卒都婆
金屋町大字歓喜寺字西原1103番地
この地は上人が二十六歳のとき、伯父・湯浅宗光の招きによって湯浅町栖原の白上から移り、二十八歳までの三年間、華厳経の教えを身につけるため修行を重ねたところです。
建久九年(1198)十月八日唯心観を修し、随意別願文を※誦したところ、その夜の夢に天地が感動して大雷のように十方に響きわたったと伝えられています。
また、ここで十六羅漢が修行の場に出て来られるふしぎな夢を見たといわれています。
※誦した(しょうした・ずした・じゅした)・・・声を出して唱えた
梵字「シーン」 功徳林菩薩
白上遺跡のある白上峰で修行していた時の心情を詠った歌碑。
なぜ湯浅宗光の招きで筏立に移ったのか?
※個人的見解があります。
世俗から離れたり、身内の施しをさけた修行をする印象があった明恵上人が、なぜ身内の湯浅宗光の招きで筏立の地に移ったのか疑問があり考察した。
筏立遺跡の地は紀伊国在田郡(現在の和歌山県有田川町)の荘園内にあり、この荘園を阿?河荘(あてがわのしょう)や石垣上荘(いしがきのかみのしょう)と呼ばれていた。
建久8年(1197年)に鎌倉幕府は文覚上人を下司職に任じて阿?河荘の地頭とした。円満院や寂楽寺は金剛峯寺による侵略を防ぐために地元の武士団である湯浅党との関係を強めていく。また、文覚の弟子である行慈も湯浅党出身であったことから、湯浅党は地頭の代官を務めるようになる。こうした状況を背景に文覚は御家人となっていた湯浅宗光に下司職を譲与した。 引用:ウィキペディア
明恵上人は建久九年(1198)に神護寺に行った時にこういった情報を得ていたのではないだろうか?
湯浅宗光は、文覚上人が地頭職を譲与するほどの存在で、また上覚上人の弟でもあることから、明恵上人も湯浅宗光を信頼し筏立に移られたのだろう。
湯浅宗光を頼(たよ)った背景に最初の修行地でもある白上峰の経験も大きかったのだろう。経典が手に入りにくい・人が崇めに来る・木こりや人の往来など音の問題で修行が思い通り進まず、文覚上人の神護寺への誘いも「未だ修行中の身とし断る」と納得していない様子がうかがえる。
以前より明恵上人を帰依していた湯浅宗光は修行の悩み(問題)を知っていたのかもしれない。地頭職だからこそ修行に適した地を提供できたと推測でき、良案を絶妙のタイミングで明恵上人に提案し招くことができたのだろう。
筏立の後、糸野や星尾と修行地を移る際、湯浅宗光が後援者の役割を担っていることから宗光への信頼の厚さがうかがえる。
明恵上人26才〜、筏立遺跡での出来事
明恵上人26歳、建久九年(1198)冬、筏立に移った。
明恵は度々神護寺に足を運び、華厳経の講義を行い、文覚を喜ばせる。
建久十年(1199)二月に文覚が佐渡に流罪となり、明恵は十余人の僧と筏立に戻る。
建久十年(1199)正月13日源頼朝が死去したことにより、相続争いに関連した不和や事件がおこった。源頼朝の帰依を受けていた文覚も事件の関係者と疑われとらわれ、同年二月に佐渡に流罪となった。この時、上覚は文覚に付き添い同行している。
筏立に戻った明恵上人は修行を重ね、建仁元年(1201)二月、全四十巻の『華厳経』の書写と校合を終える。その奥書から同行の僧に、喜海、英敏、顕印、顕真、真海の名が見える。
明恵上人29歳、建仁元年(1201)筏立より糸野へ移る。
筏立卒都婆(筏立遺跡)の場所
〒643-0161 和歌山県有田郡有田川町
駐車場 無
・車は県道424号線の路肩の広いところに駐車して徒歩で向かいました。
・遺跡までの道はかなり狭く徒歩がおススメ。
・遺跡前にあるスペースは地主の農業用作業車の停めるスペースで駐車場ではありません。