野上八幡宮の写真画像集
野上八幡宮(のかみはちまんぐう)
2023年4月18日撮影
和歌山県有田郡紀美野町野上八幡宮(のかみはちまんぐう)に初参詣。高野西街道からまっすぐ伸びる階段の景観に魅力を感じ立ち寄りました。駐車場に車両を停めてから、階段の下(神社入口)まで戻り、階段下から野上八幡宮を見上げる景観を堪能しました。
拝殿前まで階段段数は133段でした。
拝殿前。両サイドにおみくじ・お守り・絵馬・フリーペーパーがありました。
野上八幡宮由緒
御祭神(神功皇后、応神天皇、玉依姫命)
例祭日(十月十五日近い日曜日)
当八幡宮の由緒は古く、神功皇后が三韓よりご帰還の途中紀伊衣奈浦に着き、難波に船を進ませる途中三年間頓宮の跡といわれています。
その後欽明天皇の時代(1400余年前)応神天皇の霊を勧請し八幡宮を創立されました。
ついで一条天皇永延元年(987年)に山城国石清水八幡宮の別宮となり、後一条天皇万寿二年(1025年)に阿波国司に宣して紀伊の国三分の一を以て本殿、末社に至るまで十九社、中門、廻廊、舞台、神楽殿等棟数二十二屋を御造営されました。
これより放生会その他の神事一切石清水八幡宮准じて行うべしとし熟田二百十町を以て神領とし、神官その他の役職を定め、当宮の隆盛は石清水八幡宮と並び称され、紀伊国の大社の一つとして崇められました。
近世の野上庄、現代の四野上(野上町、海南市三野上地区)が当時の神領で当宮を中心にして庄園統治が行われました。
その後幾多の兵乱にもまぬがれましたが、天文十年(1541年)根来の衆徒が突然来襲し放火奪掠を極め、この為社殿を始め財宝、文書に至るまで、悉く灰燼となり神事祭礼皆廃絶しました。
その後十六年を経て弘治三年(1557年)本殿、若宮社の再建に着手し元亀元年(1570年)完成しました。続いて天正元年(1573年)には社殿、また武内、玉垂社も再建されました。
秀吉の時代になりますと、社領が没収されたが浅野幸長(あさのよしなが)が紀州に封ぜられ三石の地を社領として寄進し、鳥居、神輿を再建されました。
徳川幕府となって徳川頼宜が紀州に封ぜられ、たびたび社参し、神具、鳥居、石灯籠、絵馬等寄進されました。
もともと石清水八幡宮の庄園として開発されたところで、境内建物も室町時代末期から桃山時代初期の建築工風で重要文化財指定の社殿の他 神輿庫、宝蔵、舞殿、中門、長庁、鐘楼、御供所、鳥居二基その他多くの末社が造営され現在迄よく古制が維持されています。
昭和三十二年から三年にわたり解体修理を行い現在に至っています。
重要文化財
本殿 弘治三年(1557年)
拝殿 天正六年(1573年)
武内神社 天正六年(1573年)
平野今木神社(若宮) 弘治三年(1557年)
玉垂社(高良神社) 天正六年(1573年)
刀剣 一振 銘 真長 拵 赤銅鳥頸太刀
神功皇后(じんぐうこうごう)
応神天皇(おうじんてんのう)
玉依姫命(たまよりひめのみこと)
頓宮(とんぐう)・・・仮の宮、一時的な宮のこと
勧請(かんじょう)・・・離れた場所にいる神や仏に対して、こちらへ来てくれるように祈り願うこと
奪掠(だつりゃく)・・・略奪の意味。人の物や金品を奪うこと
悉く(ことごと)く
灰燼(かいじん)・・・灰と燃えカス。焼けて跡形もなくなること
古制(こせい)・・・古い時代のおきて・しきたり・制度
玉垂社(たまたれしゃ)・高良神社(こうらじんじゃ)
赤銅鳥頸太刀(しゃくどうとりくびだち)
夏祭りではカラオケ大会や餅投げなど大賑わいするそうです。
左:御祭神、恵美須神
右:御祭神、牛頭天皇
ここまで来ると151段ありました。
本殿の裏側
本殿の裏側に通路があり歩くことができます。
神社の境内に鐘楼があるのは現在では不思議で貴重な光景です。野上八幡宮は神仏分離以前の様子が知れる貴重な神社かもしれません。
野上八幡宮の場所
〒640-1141 和歌山県海草郡紀美野町小畑625
駐車場 有(無料)
境内の中、鐘楼前の駐車場。【駐車場】と立札はありませんが、野上八幡宮公式HPにこちらが駐車場と写真画像が掲載されていました。