明恵上人修行の地 糸野卒塔婆(糸野遺跡)、明恵紀州八所遺跡
2023年4月14日撮影
明恵紀州八所遺跡 - 糸野卒都婆(糸野遺跡) - いとのそとば
国指定史跡
糸野遺跡は、建仁元年(1201)ここに湯浅宗光が草庵を用意し、明恵上人が29歳〜31歳まで修行した場所です。遺跡(卒塔婆)には修行中、師と仰ぐ伯父の上覚(宗光の兄)が訪れ、上覚から伝法灌頂(でんぽうかんじょう)という宗教的儀式を受けたと記されている。
糸野遺跡まで300mの分岐点
道しるべ
この交差点から道は細い農道になります。駐車場はないので車での侵入はおススメしません。
糸野遺跡へ続く土手道
道しるべ
車が止められそうなスペースはありますが、農家の軽トラックが駐車するスペースです。みかんの収穫時(秋・冬)は車を停めると大迷惑になるので怒られるかもしれません。
右上にある建物の手前に糸野遺跡はあるので、ここから1分程度です。
坂の上の糸野遺跡
たぶん農家の敷地内だと思うので、遺跡の近く以外は踏み入らないよう注意しました。
明恵上人修行の地 糸野遺跡
明恵上人 糸野遺跡 説明案内板
史跡(国指定)
明恵紀州遺跡糸野卒都婆
金屋町大字糸野字上人渓650番の1
この地は上人が二十九歳のとき、伯父・湯浅宗光の招きによって、筏立から移り、三十一歳のころまで、十人あまりの青年学僧と共に集団生活をしながら修行したところです。
建仁二年(1202)上人はこの地で伯父・上覚上人について、伝法灌頂(師から仏法を伝えられること)を受けたことは、この地の卒都婆銘に記されています。
そして、土地の人びとのために、やさしい行のしかたを教えたり、仏法をわかりやすく説いたり、涅槃会(お釈迦さんの法要)を行いました。
明恵上人、糸野遺跡での出来事
明恵上人29歳、建仁元年(1201)筏立より糸野に移る。この糸野の地は湯浅宗光が地頭職を務め、筏立に続き糸野も伯父の湯浅宗光の計らいにより移る。
糸野遺跡の近くには成道寺や、上人の信仰の深かった春日明神を祀る糸野春日社がある。
明恵上人は成道寺の北西の谷に庵を結び、同行の10人余りの僧達と集団生活を始めた。修行の合間に毎日時間を決めて講義(書物(経典)の意味を講ずる(説く)こと)を行い、毎月二度の問答講も行い僧達の疑問に解答した。
建仁二年(1202)10月21日、源通親(みなもとのみちちか)が急死したことにより、後鳥羽上皇が政務の実権を握る。文覚上人は配流した源通親が亡くなったことで、帰京が許される。これにより付き添っていた上覚は久しぶりに紀州に帰郷し明恵上人と会う。
明恵上人30歳、建仁二年(1202)師と仰ぐ伯父の上覚(宗光の兄)が糸野に訪れる。
上覚上人は明恵に阿闍梨の伝法灌頂を授ける。
阿闍梨(あじゃり)---先生・師範の意味。高徳の僧の称
伝法灌頂(でんぽうかんじょう)---指導者として弟子を持つことが許される位(資格)を授かる儀式
糸野では土地の人との交流や、初めての本格的な涅槃会(ねはんえ)を行った場所でもあり、糸野地区の字名は「上人谷」と呼ばれている。
明恵上人30歳、建仁二年(1202)冬、糸野より星尾へ移る。
糸野卒都婆(糸野遺跡)の場所
〒643-0174 和歌山県有田郡有田川町糸野650番の1
駐車場 無
・車は県道480号線沿い路肩の広い場所に停めて徒歩がおススメです。
・道案内もあり迷うことはないと思います。